昭和59年1月18日 月次祭
信心をすれば、一年一年有難うなる。一年一年また、位が付くものじゃと仰せられます。お互い一年一年有難うなって、信心を致しておりますでしょうか?これが位だなと自分でも感じれるように位が付いていっておるのを、実感することが出来るでしょうか?教祖様はそう教えられるのですから、そのような信心を本当の信心ということになるのじゃないでしょうか?
どうしても、金光様のご信心を頂いておるから本当とばかりは言えない。一年一年有難うなっていくという、そういう信心を身につけて初めて本当の信心ということになると思います。
今日、テレビを見せて頂いておりましたら、昔の小学校の時の、唱歌を歌っておりました。うさぎ追いし、かの山。こぶな釣りしかの川。昔の方でなければ知りません。昔の唱歌で、故郷という。
本当に故郷にはもう、山も川も一切が懐かしいものばかりであります。信心も自分の過去というものを振り返った時に、本当にあれもおかげであった。これもおかげであったとそのおかげを実感し、過去のすべて一切が懐かしい、今思うてみると本当に有り難い、あの時には自分のような不幸せな者があるだろうかと思うような、いうならば雨の時もあった、嵐の時もあったけれども、その全てが、今から考えてみるとおかげであった。
そのおかげであったと過去を振り返って思えれる信心こそ、私は一段一段信心を進めて来た値打ちというものがあると思うです。
あの時には、あーいう事がなかったならと、あったり、また、あん時には、ただ奇跡的なあんなおかげを頂いたというだけではなくて、それ人様々雨の時も風の時もあったけれども、あーいう時にはあのような信心をもって貫かせて頂いたという、信心の思い出が懐かしく蘇ってくるような信心をもちたい。
過去が生きて来る。あれもおかげであった、これもおかげであった。しかもそれが、一年一年有り難うなっていく元に。それが、一段一段と位を感じれれる、一段一段進んで来たというものが、自分の信心を振り返って、実感出来れる有り難たさ、この有り難さには不幸せはない。この有り難さには、必ずおかげが伴う。
先だって、15日の青年の式ですか、の日のテレビに青年を迎えた方たちの弁論大会があっておりました。中にある女性の方が話しておりましたが、どんなことにでもへこたれずこれからの生涯を送りたい、まぁテレビ小説でやっている、あのおしんがどんな場合であっても、いわゆるそこからのいうなら、元気な心を振り絞って行ったように。
その方の名前は、おりんという人であった。いわゆる古風なお名前。ひらがなのおに、輪という字を書いて、お輪、お輪さん。オリンピックの年に生まれたから、親がお輪と名をつけてくれましたというておりました。
そのお輪さんが、おしんに出来る事がお輪に出来ないはずがない。それこそ観衆が一杯(??)手を打っておりました。
皆さん、どうでしょうか。どんな時にでもへこたれずに、どんな場合であっても、それこそおしんさんのように、ゆうな生き方としたということが一年一年有難うなっていく事には繋がりません。信心の位を受けるということには繋がりません。いやむしろ、おしん、私の見てます晩年はやっぱそうとうのスーパーマーケットのようなものを開くんでしょう。そして息子やら嫁たちに。ところが、その嫁たちに敬遠されておるというようなところがございます。
年をとって行くに従って、それは雨も風も、只我力をもってそこを通り抜けた。なら、立派ないうなら生き方のようですけれども、立派な生き方には、立派な私は最後がなからなければいけないと思う。これは、真の信心をする者でなからなければ分からん。また、頂けない事だとも思います。
それにはどうしても、私どもの信心が一年一年有難うなっていくという、これが位と思われるようなおかげを頂いて、間違いのない本当の信心をさせてもろうて、本当のおかげを頂きたいと思います。それにはどうしても、教祖金光大神が仰せられます、此の方ばかりが生神ではない、皆もこの通りのおかげが受けられる。何かそれを遠いところのものに頂かずに、それこそ千里の道も一歩からでありまして、そういう姿勢を崩さず、日日の信心修行に取り組む。生神への精進、そこには、雨もありゃ嵐もあるけれども、そこを信心で、それをいよいよ徳にし、有り難いものにしていくかということを焦点においていかなければなりません。
ただ、信心を頂いていくというだけではなくて、一年一年有難うなっていく信心。今日お昼ごろでしたが、上滝さん達が親子でお参拝をしてまいりました。親先生今度は本当に嫁の病気のおかげで、一家中の者が勢を揃えて信心が出来るようになりまして、思うてみますと本当におかげでございます。私が朝参りを始める様になって丸3年になりますが、もしこの朝参りを出来ていなかったら、今度のこの嫁の病気を聞いた時に、それこそ震えが出るようであったでしょう。とても、これを信心で受けるということは出来なかったでしょう。
けれども、神様は3年も前から朝参りの修行をさせて下さって、これをばっちりと一家中の者が信心で受けられるだけの、いうなら力を頂いておったということがもう本当に有り難いというて今日お話を致しますもん。ほんなこつね、神様が、より有り難いおかげ、お徳をくださろうとする、力を下さろうとする、そこにはやっぱり、そこに雨もあれば、嵐もあろうけれども、それを乗り越えてこそ力になるのだ。
してみると、それは難儀のようであって、難儀では無い。それが神愛と分かるまでのところを一つ、頂かなければならないのというて、まぁお話をした事でございますが。
私どもが信心の修行という、今日はある方のお願いをさせて頂いて、この頃、以前はよう神様にお知らせやら頂きよったが、この頃頂かんごとなりましたち。なかなか良い信心をなさいます。どういうこっちゃろうかと、話よりましたら神様からペンを頂きました。
いくらペンがあっても、そこにインクがなからなければ字を書く事も出来ません。だから私もこうしてよか信心が出来よるごとあるばってん、この頃修行不足じゃないの?どんなに立派な筆をもっておっても、やっぱりここに墨が無ければ、墨汁がなからなければ字は書けないように。インクがないということは、修行不足じゃなかじゃろうか。どげな修行しとんなさるじゃろうか。
もう一日中、いうならば生きる、生き様の中にそのすべてを修行として受ける生き方こそ、お道の信心である。お参りをしておる時じゃない、水をかぶったり断食をすることだけが修行じゃない。もう、生活のすべてが修行だという風に切り替えてまいりますと、そこに不平不足が出たり、腹が立ったりするような事でも、それを修行として受ける構えが出来る。
そういう高度な修行を神様が求められておるのじゃなかろうか、信心が低下した訳じゃないけれども、もう一段高い、いうならば家業の中に修行を感じさせて頂ける、今日もどんなにきつい事があっても結構な修行させて頂いて有難うございますというところに、いうなら神様が修行として受けて下さるのじゃないだろうかね。というてお話をした事でございます。
もう、そういう構え、修行。それを合楽理念では色んな角度から、楽しゅう有り難く受けられるように説きます。皆さんも今寒修行で一生懸命のご修行があっておりますが、ただ、寒修行のそのお参りとかだけではなくて、それを本当に修行として頂くおかげを頂かなければならんと思う。
そういう私は信心を致しませんとね、信心しておっても、過去の一切がおかげであったという、それこそ、うさぎおいしあの山、小ぶな釣りしかの川、というように本当に振り返ってみただけでも、本当に素晴らしいおかげを頂いて来たものではなるなと。本当にあの時には、あぁいう信心を体得させてもらった。あの修行によって、自分にもそれこそ位と思われるような、何か力を感じる事が出来た。過去の一切が懐かしい、有り難いことばかり、そういう生き方が年々歳々、生涯続けられてまいります。一年一年必ず有り難くなる。一年一年位がつくものじゃという位を感じさせて頂く事が出来る。
私は先だって、初めてでしたけれども、まぁ今歩かれませんから、車椅子に乗ってお広前からずーと、新館から二階、回らせて頂いて、まぁ子供たち7人おります。7人の子供が6人は今合楽で修行させて頂いております。その部屋部屋を回らせて頂いて、一時間半かかります。
もう本当に、今日はまるきりどこからの美術館めぐりをしたような思いであった。いつの間に子供たち一人ひとりの一人の個性といったようなものをここまで生かして、ここまでのいうならば生活が出来ていっておるということが、おまかないを受けておるということが、本当に有り難い。
最後に食堂から、事務室の方へ回らせてもらいます。皆さんもご承知のように、高松順子先生が体があんな不自由ですから、もう一人の御用の様に、電話のこうかんを事務室でやっております。もう、いつ電話をかけても、それこそ丁寧に明るい声でお取次をしてくれます。順子さんもうあんたがここは、お取次の場じゃ。そういう、いうならば、修行をここでさせて頂いておるんだというて、お話をしたことですが。
親先生今度の、新春パーティーの時の福引が、六百何十景品が出来たそうですが、その中に一つしかない、受話器を置くその、こう置くとオルゴールがこうなってね、が当たったという。私はそれを聞いてから本当に、新たな驚きを感じる訳ですけれども。
順子さんあんたの日日の修行をね。神様が受けてござるというが、これだけでも分かるな。本当にそれは、たいていは只、受話器のそれだけれども、いうならその電話のこうかんの御用を頂いておるそれを修行としておかげを受けておる、その修業をこのようにも間違いなく受けておるぞと言わんばかりの景品を頂いたんだねという。
今度皆さんも、まぁそれぞれに福引を頂かれて、自分には少し、こう縁が遠いような感じのものもあったかもしれんけれども、よくよくそれを深く、ご神意を広く分かろうと焦点をおいて、思うて見ますとそれこそ神の声をそこに聞くように、その全てが、どうぞ信心しておかげを受けてくれよという事ばっかりなんです。こんなにも間違いがない。
どうぞ信心して徳を受けてくれよと。力を受けてくれよと。一年一年有り難うなっていくことの為のすべてであるぞといわんばかりの私は生きた教えであったと思います。
そういう教えの中に、合楽の皆さんは浸って信心の稽古であり、または修行をなさっておるのでございますから、眼目のところを只頑張った生涯であった、それこそおしんさんのようにへこたれずに、まぁ生涯を生き抜いたと、成る程一つの美談のようですけれども、それでは有り難くなるということにもならなけば、位を受けるということにもなりません。
勿論、有り難い、またはその位にこそ、それに相応したおかげが伴うてくる訳でございますから、どうしても一年一年有難うなっていく信心修行になっておるか。これならば、位が頂けれる信心の、おかげが受けられるかということを日日確かめながら、教祖金光大神が教えられる、それを只高嶺の花として見るだけではなくて、それに一歩一歩近づいていっておることの喜び、楽しみ、そういう信心を私は本当の信心だと思う。
そういう本当の信心であってこそ、過去一切がそれこそ懐かしい慕わしい、その中には、様々な山もあった、川もあった。けれどもそれが懐かしい思い出、それこそ、あれもおかげであった、これもおかげであったと分かるようになれば本当の信者じゃと仰る、本当のいよいよ、本当の信者を目指しての信心修行をさせて頂きたいと思います。
寒修行中ですから、その寒修行のすべてがそうした、一段と有り難くなることのために、一段と位を頂くことのための修行につながる修行でありたいと思い、または願っております。どうぞ。よろしゅう。